09:透明人間の恋

そのハッカーの存在が知れたのは
一年前のある事件がきっかけだった。
突破不可能と云われたセキュリティープログラムを
ものの十分にも満たない時間で突破し、クラックした。
話題は一気にネット上に広がり、裏に詳しい者の間では
やれ誰がやったんだ、とか本当は誰それがやっただの
随分と話題になった。しかし実際のところ誰がやったのか
わからないまま、その凄腕のハッカーは謎のままになっている。
ただ判っているのはそのハッカーは少なくとも二人以上の複数犯
であること、そして名前が『透明人間』である、ということだけだった。
クラックされたファイルにその名だけが残っていたことから、
そのハッカーは『透明人間』と呼称されるに至ったのだ。

社内は慌ただしい。
常のことだが、此処は一介の証券会社であって
皆それぞれ己のデスクで己の作業を全うすべく働いている。
三成と曹丕は同じ部署であった。
デスクが背中合わせなので必然的に距離も近い。
しかし特に何か話すというわけでも無く、
たまに飲みに行く程度で、たいした付き合いでも無かった。
そもそも二人とも付き合いが悪いので有名だ。
自分の仕事を終えれば、さっさと帰宅する。
その際にエレベーターなどで出遭い話をするが、
互いに帰ってから用があるのか、同僚としての会話をして
別れるのが常だった。


自宅に帰ってから漸く三成は人心地吐く。
缶ビールのプルタブを開け、パソコンの電源を入れた。
ブオン、と機械のファンが回る音が聴こえ、
起動する。メールを確認すれば三通ほど、
一件目は家族からで、もう一件は広告、
そして最後の一通は、
「来たか、」

Sだ。
Sというイニシャルだけで誰かは知らないし、
顔もみたことが無い、
誰かという興味も無い。重要なのはこの『S』からの
連絡であって、それのみである。
Sとは一年前知り合った。
ハッカー仲間である。
三成はハッカーだ。この『S』と名乗る人物もまた凄腕のハックを
する人物であった。奪った情報をどうするでも無い、
ただ盗む、時には破壊する。それだけだ。
愉快犯のような犯行をこの一年で何度も繰り返している。
三成にとって、ハッキングなど然程興味があったわけでも無い、
ただ知り合いが面白そうにそれを語って、誘われるままに
ただやった。他意も無い、しかし、現実での日常の退屈さを
紛らわすために始めたことだった。
そんな中『S』という人物と出遭った。
あるチャットルームで出遭い、意気投合して、
二人でいろんな場所をハックした。
なるべくセキュリティーの強固な場所ばかりを狙って
ハックする。『透明人間』という名だけを残して、
痕跡すら残さない。
そのスリルにのめり込むように三成は嵌っていった。
『S』も同じなのだろう、正体を隠して他のチャットでは
寡黙なくせ、三成と話す時は饒舌だった。

Sという人物は、(恐らく男だろうと思うので『彼』と呼ぶことにする)
非常に頭が良かった。突飛なことを思いつき、行動に移す。
それをするに見合う能力と機転の良さが合った。
そんな能力を何故こんなことに使うのかは知らないが、
三成と同じで恐らく退屈なのだろう。
互いに暗号のようなイニシャルでやり取りし、
ハックする。病みつきになるような快感がたまらない。
彼も自分も決して失敗などしない。
綿密にルートを作り、入り込む。
そして他の仲間の前では寡黙になり、二人の時だけ
プライベート以外のあらゆることを話し合う。

Sとの、この二人だけの特別が三成にとって
愉しかった。秘密を共有しているのだ。
いつものようにSとチャットで会話をし、
次のターゲットを決める。
事前に下調べをする、とSが回線を切ったところで、
就寝となった。


ふあ、と欠伸をした。
通勤前に会社近くのコンビニで珈琲とサンドウィッチを買い、
出勤するところだ。
「あれ・・・」
曹丕である。
目の前を横切る曹丕は携帯を弄っているようだった。
何かのグラフのようだったがそれ以上は画面が反射して
よく見えない。
「おはよう」
おざなりに挨拶をすれば曹丕は携帯を閉じた。
ああ、と言葉を返され互いに無言のまま出勤をする。
背中合わせのデスクに座り、互いのパソコンを起動させ
今日も一日が始まる。
Sという人物と、そしてMというイニシャルの男が二人、
互いに誰か気付かないまま、
今日も一日が始まる。

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