06:八雲
※5懿丕

彼の王子は多くを語らぬひとであった。
そのこの上なく尊い御身はいずれ至高の存在へと
昇る為のものである。
その為に苦渋を噛み、数多の障害を乗り越え
漸く王太子の座を勝ち得た。
司馬懿はこの美しい王子への尽力を
惜しまず全力でその存在を押し上げたのだ。
しかし近頃想う。
この方は何も望んでいないのでは無いかと、
それは危惧では無く最早確信であった。
父という男の掌で成ってみせよ、と望まれるままに
後継者と成り、覇道を為す為だけに存在を
許された王子は自らを殺しているようにも見えた。
それを悟った時司馬懿の胸は酷く痛んだ。
語らぬ静謐の美しさを知ったのもその頃であった。

珍しく設けられた僅かな休息時間に
青年は書物を読む。
司馬懿があまり好まない風聞の類であったが
そういった書物を読んでいる時が
一番幸せそうであった。
その時間だけは曹丕だけのものであり、
司馬懿すら入れはしない、
穏やかに茶を嗜みながら
ゆっくり書物を捲る曹丕は
ひとつの風景のように世界から切り取られていた。
戦など知らず、父親という存在さえその瞬間は
消え去り、世のあらゆることが彼にとって
無縁のものであるかのように、
全ての憂いなど無いかのように
優しく時が過ぎていく。
そのささやかな幸福がせめて
凍える彼の心を癒せばいいと願いながら目を閉じる。

だからこそ、
司馬懿は想うのだ。
いつまでも、いつまでもそうさせてやりたいと、
彼の時間がこうして此処に留まったまま
進まなければ好いと、

しかし仰ぎ見た空は暮れ、
八雲がなびく、
時は止まることなくただ無情に進む。
司馬懿は扉の前に立ち無情な言葉を放たねばならない、
そうせねば彼は望まれるままに生きるという自己を
失くすのだから、

「失礼します、子桓様」

顔を上げた彼の眼は冷え、
ただ、何の色も無く司馬懿を見据えた。

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