08:不知火
※長政+三丕

ぼや、とした影が揺らいだ様に見えて
長政は眼を細めた。
まるで不知火のようだ。
この異界は時折こうして、ぐにゃりと
空間が揺らいで見える時がある。
元々在る筈の無いもの、交わる筈の無いものを
混ぜたというのだからそれは当然であるように思えた。
このようなことにいちいち驚いていては
此処ではやっていけない。
その点、長政はわりと早くこの異界の環境に
適応した。こういうものだと早くから変化を受け止めたのだ。
だからこれもいつものこと、と流そうとした
ところで、長政は眼を細めた。
ゆらりと揺らいでいた影から曹丕の姿が
微かに見えたのだ。
時折こうして陽が沈んだ後に曹丕の姿を見かけることがある、
長政からすれば曹丕は古の大国の血筋であり、
後を織らば尚のこと、このうえない存在の
王子はその位に引けを取らぬ美しさと賢さを
備えた方であったが、その上で己などより
余程策謀の世界に生きていると察している。
故に夜、曹丕の姿を認めても声をかけることなどせずに
ただその背を見送っていた。
最も彼の知る男がこれを知れば激昂するに違いないと
少し笑みが零れる。
( それでも、あの方には必要な方ではなかろうか )
曹丕を見ればやれこうしろ、ああしろと口を開いて
まるで甲斐甲斐しい母親のようにも主人に纏わりつく
子犬のようにも見えた。
( 三成殿が聴いたら怒るな・・・ )
くす、と声を漏らす。何、云わなければわかるまい。
なんにせよ、微笑ましいことに変わりはない。
元の世界でさほど交流があったわけでは無いが
石田三成という男はこのような男であったろうか、
噂に聴いたものと随分違って見えた。

「どうかなされたのですか?長政様」
隣を見れば市が居る。
冷えるので夜着を持って来たのだという。
有難く夜着を羽織らせて貰い、
向こう廊下に見える曹丕を見遣った。
「いや、曹丕殿が・・・」
先程より曹丕の姿がはっきり見える。
その姿を見た瞬間、長政は眼を見開いた。
「市、もしやと思うが三成殿は近くに居られるか?」
「向こう廊下で先程お会いしました」
それがどうかしたのですか?と軽やかに微笑む
愛妻に長政は何事かを囁き、
そのまま曹丕の元へ少し足早に駆け寄った。

「曹丕殿・・・!」
廊下の角を曲がる寸前で曹丕の腕を取り
引き寄せる。
思ったより細い腕を引けば簡単に曹丕は長政の
影に隠れた。
「何事ですか?」
長政の問いに曹丕は顔を顰めた。
見られてはいけないものを見られたとでも
云いたげにそれはもう盛大にだ。
「何だ、私は急いでいる」
ですから、と長政は小声で告げる。
「そちらは危険ですよ、三成殿が通られます」
その言葉にぴくり、と腕の中の曹丕が慄え、
忌々しげに舌打ちをした。
( 思ったより、感情豊かな方だ )
曹丕のそういった姿は長政にとって
好ましかった。
異界で在ったこの美しい王子との不思議な縁を
長政は気に入っている。
「湯殿へ向かわれるのでしょう?」
此方へ、と恭しく手を差し出すと曹丕は
止む無しと長政の手を取った。
そっと曹丕を人気の少ない廊下へと案内する。
「ひとりでも問題無い」
「そんな格好の貴方を独り歩かせることなど
私にはできません。こちらを羽織って下さい」
長政が曹丕に駆け寄ったのはその為である。
普段の装いなら然程気にもしないだろう、
しかし曹丕の今の装いは酷いものだ、
衣服のところどころ一体何をどうしたのか
酷く裂けていて、これはもう服では無い、
布である、かろうじて布を巻いている状態で
曹丕は何処かから城内へ戻って来たのだ。
曹丕は憮然とした様子で、長政の羽織る夜着を
肩に掛け解けた髪をなびかせた。
「理由は聴くなよ」
大方何かの策の為に敵営へ乗り込んだというところだろうが
単身で、と思うとぞっとする。
「お独りでは危険だ」
歩きだした曹丕がはた、と止まり長政に振り返る。
「私はこれでいい」
いっそ妖艶と云える笑みを浮かべる曹丕に
長政は眼を細めた。

「三成は?」
「妻が足止めをしています、さ、お早く」
所々人を逢わぬかを長政が確かめながら歩く。
曹丕は長政を見つめながら、そっとその夜着に
手を通した。

「お前はいい」
「そうですか?」
「何も聴かぬからな」
「貴方が話されないのであれば」
「私に欲情せぬのもいいな」
「おや?そうお思いですか?」
「違うのか」
「いえ、然したる差も無いのですが、」

ただ、と長政は告げた。
「私は貴方のそのようないじらしさが好ましい」
曹丕の屈折した内を透かした言葉に
曹丕は僅かに薄い眼を細め、
そしてもう一度「矢張りお前はいい男だ」
と呟いた。

http://zain.moo.jp/3h/