08:指先
※5懿丕

ゆらゆらと夢を見る。
幼い頃の夢だ。
夢の中で、曹丕は手を伸ばす。
父の後ろをたどたどしく歩き、
手を伸ばす。
しかし歩き方を覚えたばかりの幼子には
到底届く筈も無く、
その指は空を掴むばかりで、
父には届かなかった。

大声で聲を出そうとするのに、聲が出ない。
父の名を呼ぼうとするのに、
どうしてもそれが曹丕にはできなかった。
まるで言葉でも奪われたかのように、
曹丕は何一つ聲をあげることが出来ずに
懸命に父を追う。
父の背中は遠ざかるばかりで、
振り返って、自分を見てほしいと思うのに、
ついに向こうに霞んで消えて仕舞った。

は、と目が覚める。
夢だ。
( いつもの夢だ )
起き上がり、息を吐く、
( いつものあの夢だ )
いつも見る、あの夢。
今迄に幾度となく、見てきた。
こうなると悪夢に近い。
まるで自分が永遠に父に届かぬようで、
曹丕は、ゆっくり息を吐き、
「そんな筈無い」と呟いた。
そんな筈は無い。
いつかは届く筈だ。
いつかは前を歩く父が振り返る筈なのだと、
云い聞かせる。
何度となく言い聞かせたところで、
再び身を横たえた。
しかし、自分に都合の良い夢ばかり見れるわけでは無い。
苦しいばかりで、夢でも自分はこんなに苦しいのかと
哂いたくなる。
手など延ばしてもきっと届かないのだ。
父にも、誰にもこの手は届かないのだと思う。
何一つ自分で掴むことなどできぬのだと思う。
真実自分は覇道を歩むためにのみ存在するのであって、
そのどこからが自分の意思なのか、どこからが父の手の上なのか、
そんなこと分かり切っていて、
全てはあの父の手の上なのだ。
だから自分の手で掴むものなど曹丕には何も無い。
それを思うと自嘲気味に笑みが零れる。

しかしそれが当たり前であって、
抗う術など曹丕は知らない。
それでいいのだとさえ思う。
もうこのまま夢でも現実でも何も掴めなくていいではないか、と
哂い、曹丕は投げやりに指を伸ばした。

「・・・っ」
は、とする。
何かを掴んだ。
眼を開けると辺りは明るい。
朝だ。
ふ、と掴んだ先のものを見る。

「仲達・・・お前か・・・」
「はあ」
手を掴まれた司馬懿はなんとも云えない顔をしている。
急に掴まれたので驚いたのだろう。
「遅いので様子を見に来たのですが・・・」
ねえ、と手持無沙汰で、未だ曹丕は司馬懿の手を掴んだままだ。
「なんだ、お前か・・・」
「私で悪う御座いましたね」
些か機嫌を悪くした様子で話す司馬懿に曹丕は笑いたくなった。

「掴めるものだな・・・」
「は?そりゃ掴めましょうとも、手を伸ばしたのですから」
当然だ。
曹丕が手を伸ばしたのだから当然だ。
「投げ遣りに掴んだものがお前とは・・・」
「なんですか、私は塵ですか」
憤慨する司馬懿に曹丕は今度こそ聲を上げて笑った。

「いや、いい、そうか、これでいいんだ」
「何がですか?」
それより早う起きて用意なさい、と云う司馬懿の
言葉に曹丕は頷き、寝台から身を起こす。

「私にも掴めるものがあったということだ」
何処か晴れ晴れした曹丕の顔に、
司馬懿は、はあ、それはよう御座いましたね、と
投げ遣りに答えた。
もうあの夢は見ない気がした。

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