22:帰りたくない

滅多に本音を話す男ではなかったが、
ぽつりと漏らした言葉に三成は慄えた。
「まだ帰りたくない」
それだけの言葉に三成はどうしようも無い歓びを覚える。
軍務の傍らにやらなければならないことは膨大で、
普段の曹丕なら決してそんな弱音は洩らすまい、
しかし、最近酷く疲れた様子の曹丕は少し所在なさげに目を
泳がせたから、やはり帰ると立ちあがろうとした。
慌てて引き留めて、腕に抱き込めば
少しの抵抗があったものの、結局曹丕は不承不承と云った
具合で三成の腕に納まっている。

三成はそっと曹丕の髪に鼻を埋める。
香る花の香は到底男とは信じ難い。
細君がそういったことに煩いのか、
曹丕は元々、大将として本陣に居ることも多い為に、
血と汗と粉塵にまみれた戦場の中で唯一と云っていいほど
その場に似つかわしくない香を漂わせていた。
簡潔に云うといい匂いなのだ。
花も恥じらうというか、月下美人と云うか、
曹丕のそれはその美しさを充分に引き立てるものであった。
何処までがこの食えない男の計算なのか三成には測りかねる。
三成に明らかな意思を持って近付いてきたのは曹丕だ。
腹心であった多くのものと引き離されて、
かろうじて食い下がった将が残されて、
遠呂智と同盟を組んだと云っても結局形だけだ。
名実服従となんら変わらない。しかしそれを悠然とした
態度で受け流す魏の後継者、
怜悧な美貌と計算されつくされた仕草で、周囲を掌握する様を
最初は鼻で哂っていた三成だが、
腹心と離された今、曹丕にとって欲しいのは情報と頭脳だ。
監視として宛がわれた三成に近付いたのもその意図があってのことだと
わかっていた。
わかっていたのに、曹丕という男を三成は切れない。
わりきろうとしてもどうしてもその影がチラついて離れない。
あの目を見た瞬間から、その刹那の生き方を見たその時から
三成はこの孤独を歩む男を放っておくことなど出来なかった。
そんな三成に、それがお前の甘さよと哂う男がどうしようもなく
三成を惹きつける。初恋を知った子供でもあるまいに、
しかし抗い難い魅力から逃れられないままに
その形の良い唇の味を知ってしまえば尚のこと、
曹丕は薄く哂い、三成を誘った。
多くの者が呑まれたように三成も欲望のままに曹丕を貪った。
指を絡めて、時折祈るように口付ければ、曹丕がやめよ、と身を捩る、
真っ直ぐにぶつけられる感情を曹丕は拒絶する。
お前など代わりにしかすぎないと示すくせにその手は絡められたまま、
三成が離れると洩れる寂しげな吐息に、
誰か守りたいと思ったのは曹丕が初めてだった。

睦言ひとつ、上手く囁けない自分を叱咤する
それでも態度で身体で根気よく示せば、ついに曹丕が折れた。
三成、と呼ぶ聲に時折感情が混じっているのを聴いた時
その愛しさにどうしていいのかわからなくなる。
云い様の無い感情に呑まれていく。
三成は腕の中の曹丕の頬に指をやった。
そろそろ、本当に行かねばならないと身体を起こす曹丕を逃すまいと抱きしめる。
「何時まで、こうしているつもりだ」
眉を顰めて三成を見る曹丕に、三成は答えた。


「世界が終るまで」

曹丕を見れば、彼は哂い、そして目を閉じ、
悪くない、と呟いた。
この愚かな行いに、身の内から焦がして逝く恋情に、
互いに呑まれ滅ぶのも悪くないと嗤う二人、
抱きしめ合って目を閉じる。

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