23:いつもの店
※パラレル

その存在を思い出したのは信号を待っていた時だ。
ふと、寄ってみる気になった。
随分前に、一度寄っただけの店だったが、
好みの味の珈琲を出す店だったように記憶している。
此処からさほど遠くも無い、三成は上がったばかりの
雨を確認して傘をたたみ、歩を進めた。

「在ったか」
古びた、木造の民家を改造して喫茶にしている店だ。
白い少し塗装が剥げ落ちている壁に青々とした蔦が
幾重にも絡まっている。
古いと云えばそれまでだったが、風情があるといえば
そうともとれる。昔から存在していて、いつの間にか風景に
融け込む、そんな店だった。
カラン、とドアを開けると喫茶店特有のドアのベルが鳴り、
三成はそのまま店へと入った。
店内は初老の男がマスターとして居るだけだ。
何処か懐かしい洋楽が流れていて、吹き抜けの天井は
梁が見えて、橙の灯りがやさしく店内を照らしていた。
三成はそう広くない店内のカウンターに座り珈琲を注文した。
流れるような手つきで、初老の男が珈琲を淹れていく、
サイフォンから香る珈琲の匂いが三成を安堵させた。
読みかけの小説を鞄から取り出し、三成は出された珈琲をゆっくりと啜った。
雨上がりの午後のことだった。

それから更に数日、再びあそこへ寄ってみようと、
足を向けた。今日は仕事もオフで、久々にゆっくり過ごせそうだった。
電車に乗って店へ向かう、角を曲がり、住宅街の奥にひっそりある
店を目指す。古い木造の喫茶店に『営業中』と書かれた看板を見て
三成はほっと息を吐き、再び店のドアを潜った。

「ん?」
中の様子は何も変わらない、何一つ変わってはいない。
相変わらず客のいない店内に、品のいい内装、落ち着いた雰囲気の
大きすぎないバックミュージック(今日はクラシックだった)、
しかし、マスターが違った。
この前の初老の男では無く、随分若い男であった。
三成は思わず、口を開いた。
「今日は、いつもの初老のマスターでは無いのだな」
聲を掛けられた男は其処で初めて顔を上げ、まっすぐに三成を見つめた。
本を読んでいたらしい、丁寧にしおりを挟んで、立ち上がった。
「マスターは入院中だ、その間は私が切り盛りすることになった」
そのまま眼鏡をゆっくり外して、「注文は?」と言葉を続ける。
黒い、長い髪を一つに束ねて、は、と息を呑むほど顔の綺麗な男だった。
眼の色が、薄い青だ、思わず魅入って言葉を失う三成に、男は
無言でメニューを差し出した。
「ああ、すまない、ええと、否、何でもいい」
「何でも?」
咄嗟に出た言葉がそれだった。
男は「おかしな奴だ」と呟いてから、結局何でもいい、という言葉に従う
ことにしたらしい。
「親子か何かか?」
綺麗な顔の男に尋ねれば、男は長い指を器用に動かしながら、
「親戚だ」と答えた。
ことり、と目の前に出された珈琲を受け取り一口啜れば
香が口いっぱいに広がった。
「味は変わっていない筈だ」
正直に美味い、と告げれば、男は眼を細めた。
「此処の珈琲のファンが多くてな、都度云わねばならん」
見事なものだった。
こんな珈琲が飲めるなら毎日だって来てもいい、
流石に其処まで言うのは憚られたが、充分に価値のある味だった。
三成がそんな思考を巡らせ会話の糸口を探している間に
男が三成の前にサンドウィッチを差し出した。
ざく、と大きく切られたそれは、
一つがサーモンとチーズ、もう一つがターキーであるらしかった、
どちらにもみずみずしいレタスが挟まれボリュームはたっぷりだ。
それほど腹が減っていなかったように思うが、
よく考えればもう昼時だ、目の前のサンドウィッチを見て
正直に腹の音が鳴った。
有難く口に運べば、かり、と香ばしいパンの味が広がる。
指についたドレッシングを軽く舐め、「美味い」と三成が云えば
男は「当然だ」と答え、再び椅子に座り読書を再開した。

「こんなに美味いものは久しぶりだった」
手早く会計を済ませ、男に「また来る」と云えば、
男は三成の背に聲を投げて寄越した。
「曹子桓だ」
振り返る、
そして目が合った、
謀らずとも、その美しい微笑を見てしまい、
三成は暫し放心する。
その言葉の意味をなんとか租借し、
頭の回転の速い三成にしてはたっぷり三十秒はかかっただろう、
ようやっと言葉を絞り出した。
「石田三成だ」
曹丕は頷き、三成に向って軽く手を挙げた。
三成は微笑を浮かべ店を出る。

恐らく自分は
明日も、明後日も屹度此処へ来るだろう、
彼に会うために、
自然に、突然に、時には偶然を装って、
それを想うと心が弾む、
ただ喫茶店に珈琲を飲みに行く、
それだけのことなのに、こんなにもどきどきする。
三成はいつも少し緊張してそのドアを潜るのだろう、
中には美味しい珈琲と美しいひと、
そして穏やかな時間が在る。

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