25:虹のかなた
※懿丕/曹丕即位後。

しん、とした城内にはまるで誰もいないようだった。
否、いないのでは無い、表に出ればこの広い城内には
無数の兵や、官が務めていて、更に云うなら、華やかな侍女達が
曹丕の妻や妾を着飾っているのだろう、恐らく季節の花が
色取り取りに開く庭先では愉しげな聲が聴こえるに違いない。
しかし、此処は静かだった。
曹丕が座る離れの宮は静寂が支配している。
磨かれた床が青く空を反射し、影を造り、
そのしずけさを象徴しているかのように、
少し冷たい、まるで曹丕そのものがその静寂のようであった。
時折、チチチ、と無く鳥だけが静寂に響く、
春先の時分であった。

こつこつとその静寂を破る音がある。
音は真っ直ぐに曹丕に向かっていた。
曹丕は椅子から背を離さずに蒼い空を眺めている。
「陛下」
恭しく頭を下げる男に曹丕はその薄い灰青の眼を向けた。
「心にも無いことを云うな、怖ましい」
司馬懿はにやりと口端を歪め曹丕の手に触れた。
その手つきはこの世の至高の宝に触れるように
丁重だった。何をするのか制する気も失せて
曹丕は司馬懿のするままにまかせる。
司馬懿はいよいよ興が乗った様子で、曹丕の長い指を
執拗になぞり、ゆっくりと唇を寄せた。
「此処は少々冷えますな」
上掛けを、と用意していたのだろう、
細かい模様の描かれた絹を膝に乗せられた。
「直に閣議が始まります」
仕事が溜まっていると暗に云う男に
曹丕は目線を空へと戻した。
「わかっている」
人払いをして曹丕はこの宮に一人でいることが稀にあった。
司馬懿はそんな曹丕の行動に眉を顰めたものの、
一度もそれを責めたことは無い。
孤高の帝にはそれも相応しいのだろうと
一種の陶酔した考えがあるようだった。
事実曹丕は生来、人をあまり寄せ付けない性質であった。
皇帝に昇り詰め、その孤独は一層研ぎ澄まされたようで美しい。

「何をお考えですか」
さらりとした曹丕の髪に触れる司馬懿に
それでも好きにさせ、曹丕はぽつりと口を開いた。
「空を見ていた」
随分と時間がかかった、曹丕がこの位を勝ち取る為に
全身全霊をかけて挑んだ、そして曹丕は勝った。
父曹操が死に、後を継ぎ父の覇道を成した。
しかし、それだけだ。
それだけだった。
時折曹丕は自分には何も無いような感覚に捕らわれる。
云われるままに生き、望まれるままに奸雄の息子として
振舞い、そして今も皇帝として総てに望まれるままに
頂点に在る。
果たしてそれの何処に己が在るのだろう、
総て己と云えばそうだ、自分でそうあるように
己を造りあげてきたのだから、己であるに違いない。
しかし総て己が無いと云えばそうとも思う。
人の、人の様々な思惑に駆られるままに生きてきた、
それが時折酷く虚しくなった。
「虹があった、」
司馬懿は何も云わず、曹丕の髪を愛しいもののように撫ぜた。
「あの彼方には何があるのだろうな、仲達」
互いに利用し、利用され、互いの思惑の合致のままに
それを使う、それが互いの関係であり、全てだ。
簒奪の意思を隠そうともしない司馬仲達という男を曹丕は重用した。
「全ては貴方様のものです」
虹の彼方にあるものも、皆全て御身の物と
囁く男が曹丕は可笑しくて哂った。

「私を好いているか?」
戯れに紡がれる言葉に司馬懿は哂う。
そっと祈るように、まるで愛しいものを全身で愛するように
口付けて、眼を細めた。
「厭いですとも」
わたしは貴方が厭いです、と紡ぐ司馬懿に曹丕は微笑んだ。
きらいと云う癖に、愛しげに曹丕に触れる、
いつか貴方の為に虹の彼方にあるものを取ってきましょうと
囁く腹心に曹丕は哂い、目を閉じた。

「お前だけがそう云って呉れる」

この歪んだ関係だけが曹丕にとって
最も相応しいリアルに見えた。
空は蒼い、あの虹の欠片ももう見えない。
傍らの男が紡ぐ戯言だけが酷く心地良くリアルだった。

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