29:落書きされた壁
※OROCHI/世界瓦解後記憶喪失/

その壁に書かれた文字の存在を認識できるようになったのは
つい最近のことだ、否、先ほどなのかもしれない、
そういった時間の感覚さえ、時折曖昧になることがあった。
曹丕は、ぼお、と頭の隅が霞むようになる感覚に
くらりとして壁に手を付いた。
世界に何かがあった。
最初の内は皆覚えていたものだが、徐々に思い出すことも無く
記憶が薄れていくことに違和感さえ感じない。
ただ、その期間がそっくり皆無かったことになっている。
紙に残そうとしたのに、言葉が浮かばない。
だのに、思いだけが溢れて来る。
その矛盾に曹丕は壊れそうだった。

『・・・ぬ・・・かもしれぬ』
あれは誰の言葉だったか、
かつて傍に居た誰よりも安らぎをもたらす存在が
あった筈だ。
云いようの無い喪失感に曹丕は駆られる。
まるで魂の半分を持っていかれたかのように
焦燥感だけが曹丕に残された。
抜けがらのようだ、と曹丕は思う。
今の己は抜けがらのようだ。
不格好に打ち捨てられた人形のようだった。
何かを喪失していたのに曹丕にはそれが思い出せない。
どうしても思い出せなかった。
「誰だ・・・」
搾るように言葉を出せば、吐き気が込み上げた。
酷い頭痛がする。壁についた手では己を支え切れず、
堪らず曹丕は床に崩れ落ちた。

『紙では残らぬかもしれぬな』
遠い聲が響く、
『徐々に薄れていく類のものなのやもしれぬ』
『どういった力かわからぬが、元の状態に戻るのなら、』
無かったことになると男の口が動く。
「厭だ」
どうにか言葉を絞り出せば、男は笑い、
優しく笑い、曹丕の頬を撫ぜた。
『忘れまいよ』
『どれほど時が流れようと、どれほどの時間が隔てられても』
「俺は忘れない、お前を忘れるものか」
男が紡いだ言葉をなぞるように曹丕が聲に出す。
汗が床へと伝う。
酷い悪寒がする。
頭痛が苛み、今にも気を失いそうだ。
けれどもその喪失感は癒えることなく曹丕を責める。
「いやだ、忘れたく無い」
あれが誰だったのか、どうしても手放したく無い、
頼むから、と信じてもいない神仏に祈る、
天に祈る。
縋る寄る辺も無く、霞む視界で壁を見る。
古い壁だ、そこに染みがある。
不自然に見えるその染みを慄える指でなぞれば
文字が見えた。

「そうか、そうだったか・・・」
その染みは文字だ、今まで見えてもいなかった。
否、誰も見えていなかった。
だが曹丕にははっきりをわかった、
それが文字だと、
よく見れば、床に散った白紙の書物にも文字が見える。
そうだ、全て残っていた。
皆見えなくなっていただけで全て残っていた。
忘れまいと書き残した全ては此処に残っていた。
噫、そうだ、徐々に頭がクリアになっていく、
曹丕は頭を振り、顔を上げ、その浮き上がった文字をなぞった。

「石田・・・三成・・・」
涙が溢れる。
とめどなく溢れて落ちる。
「三成・・・」
「みつなり・・・」
慄える身体を己の腕で抱き込んで
曹丕は嗚咽を漏らした。

「必ず、いつか、必ず、お前の輪廻まで辿りついてみせる」
もう一度逢おうと約束した、
その約束の為に、曹丕は生きる。
己の総てをかけて、
「もう一度、必ず」
魂の半分を持っていた、あの憎らしくも愛しい男に
もう一度逢う為に、曹丕は擦れる聲でその名を呼ぶ。
言葉は部屋に木霊し、しづかに消えた。

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