30:ベランダの花
※パラレル

窓を開ければ心地良い風が吹いた。
室内にまで入ってくるあたたかな春の匂いは
それだけで気分を新鮮にさせる。
曹丕はベランダに置いてあったプランターを手元に寄せ、
花の様子を見た。
蕾は随分大きくなっており、明日にも咲きそうだった。
土の具合を確認してから、湿らす程度に水をやる。
そよそよと風が蕾を揺らし、花の香が曹丕を誘うようだった。

「明日にも咲くようだ」
そう云えば、部屋の奥で歯を磨いていた男が顔を出し、
頷いた。機嫌がよさそうだ。
今日は久しぶりに互いに休日が重なり、
これから散歩がてら買い物にでも出かけようという
ところだった。
普段は仕事に忙殺されている分、互いの休日は大事にしたい。
うがいを終えた男が曹丕の傍らに立つ。
「それは楽しみだな」
誕生日にと男が贈ったのはこのプランターだった。
曹丕はそれを大事に手入れし、漸く開花というところまで来た。
これはまるで二人が歩んできた軌跡に似ている。
懸命に互いをぶつけ合い、時に激しく、時に穏やかに
理解し合い、他人というものを知らなかった曹丕に
全てを与えた。思えば、寂しさも孤独も、
それ以外の感情もこの男に与えられたのではないかと思う。
気付いたら一人では生きていけないような、
激しく息もできないような熱情に絡め取られるままに
その腕に引き寄せられたのは自身であった。

男は軽く上着を羽織り、出かけようと曹丕を促す。
曹丕はそれに頷き後に続いた。
「いつかこの眼を蒼穹だとお前は云ったな」
曹丕の言葉に男は、そうだったか、と答える。
ゆっくりと歩を進め、男の隣に曹丕は立った。
「或いは、途方も無い荒野でただ抱き締めた」
男は、再びそうだったか、と答えた。
曹丕は笑い、男の背を眩しそうに見つめた。
手を伸ばせば届くのに触れるのに躊躇する。
思わず、立ち竦む曹丕に、男は振り返り
躊躇わず曹丕の手を掴んだ。
「行くぞ」
掴まれた手は曹丕を光の中へと引き上げる。

( 噫、 )
( 嗚呼、いつも )
いつも、どんな時に巡り逢おうとも、
( お前は、 )
薄れていく、記憶の中で、
頭の中で壊れて霞んでしまうものへと必死で手を伸ばし続けた
曹丕の腕を、易々と掴む男に曹丕は安堵する。
どれほど堕ちようともこの男がある限り、
歩んでいけると思うのだ。
曹丕は堪らず聲を洩らした。

「三成、」
三成は振り返り、早くしろと
何でもないように曹丕を急かす。
曹丕は夢のようなあの時を思い出す。
( いつも、いつの時も )
( 覚えていても、そうでなくとも )
( まるで幻のような )
そんな出遭いを何度も繰り返しているような錯覚を覚える。
その都度、傍らの男は云うのだ。
「大丈夫だ」
大丈夫、大丈夫、どんなになっても、
「この手は離すまいよ」
その言葉に、涙が溢れそうになるのを堪えながら
曹丕は当たり前にある日常を愛しく想う。
今頃、春風に心地良く揺られているベランダの花は
明日には美しい花を咲かせるだろう、、
辿りつけた歓びに、この日常に、
永い時間の末に漸く辿りついたこの時間に
その存在を想い、
曹丕はその手を握り返した。
この素晴らしい日々に限りない感謝を込めて。

「行こうか」

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